お金と仏教――欲望と自由のあいだにあるもの
現代社会において、お金は生活に欠かせない存在である。それだけに、「お金とどう付き合うか」という問いは、私たちの価値観を鋭く浮き彫りにする。仏教は、この問いに対して、実に深くリアルな答えを用意してきた。
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お金は悪ではない――しかし魔力がある
仏教は、お金そのものを「悪」とは捉えない。むしろ重要なのは、それにどう心が関わるかである。欲望や執着によって心が乱されることを問題とするのが仏教の立場だ。
たとえば、仏教では「三毒(貪・瞋・痴)」という根本的な煩悩を説くが、そのひとつである「貪(むさぼり)」は、お金に対する際限なき欲望と深く結びつく。
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お釈迦様の言葉に見る「お金」の教え
パーリ語経典の中には、富や財産についての具体的な言葉が多数残されている。
> 「如来の正法は金銀を捨つるよりほかにはじまらず」
> (『正法眼蔵』「受戒」巻)
また『ダンマパダ』には、次のような教えもある。
> 「河が常に流れてとどまらぬように、財産もとどまることはない。」
これらの言葉はいずれも、「お金に執着する心は、苦しみの原因となる」という仏教の根本精神を示している。
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出家者はなぜお金を持ってはいけないのか
お釈迦様は、出家者に対して金銭の所有や受け取りを明確に禁じた。これは、単なる理想論ではなく、仏教の戒律(ヴィナヤ)として厳格に定められている。
> 「比丘は金銀を受け取ってはならない。金銀を求めてもならず、他人に保管を依頼してもならない。」
金銭を持つことは、欲望を育て、在家者との利害関係を生む。そのため、出家者は托鉢によって必要最低限のものを受け取ることが原則とされた。
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お金の魔力――「貯められること」の危うさ
お金の魔力とは何か。それは、他のモノとは異なり「腐らずに蓄えられる」という性質にある。食べ物は腐るが、お金は貯めておける。この「蓄積できる力」が、人間に「もっと欲しい」「もっと安心したい」という執着を生む。
また、お金は食べ物、住居、保険、自由、評価など、あらゆる価値を「代理」できる。つまり、お金は「すべての欲望の媒介物」になってしまうのだ。
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仏教的な処方箋――知足と布施
仏教は、お金そのものを否定せず、それとの関係性を問い直す。
知足(ちそく)
「足るを知る」という心。持っていないから苦しいのではない。**持っていても満たされない心こそが問題**なのだ。
布施(ふせ)
執着を手放す実践。自分の利益を離れ、他者のために与える行為は、心の自由につながる。布施は単なる寄付ではない。「手放すことそのもの」が修行である。
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道元禅師の「金銀を捨つる」精神
日本曹洞宗の開祖・道元禅師も、出家者はお金を持ってはならないと説いた。
> 「如来の正法は金銀を捨つるよりほかにはじまらず。」
この言葉に表れているのは、「仏法に入るとは、まず執着を断つこと」だという覚悟である。
とはいえ道元も、寺院の運営や現実的な支援の必要性は理解していた。ゆえに、在家者からの布施によって支えられる「清貧の共同体」を目指したのである。
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終わりに――お金を使うか、お金に使われるか
お金はただの道具である――それは理屈では正しい。しかし、その道具が心の奥深くに及ぼす影響は、想像以上に大きい。
お金を持つこと、使うこと、それ自体に善悪はない。問われるのは、「そのとき、自分の心は自由か」ということである。
仏教は、お金と共に生きながらも、お金に囚われずに生きる道を教えてくれる。それは、現代においてますます必要とされる智慧ではないだろうか。