「友達なんていなくていい」という風潮への違和感
近年、「友達なんていなくていい」「ひとりのほうが気楽だ」といった言葉を耳にする機会が増えている。
特に著名なアーティストやインフルエンサーがこうした言葉を口にすると、それがあたかも“新しい生き方”や“強さ”であるかのように受け取られる風潮すらある。
しかしながら、私はこの風潮に強い違和感を抱いている。
なぜなら、人間とは本来、ひとりでは生きていけない存在であり、つながりの中でこそ自己が確立されていくからである。
「無理に友達を作らなくていい」は一面の真実にすぎない
たしかに、「無理に誰とでも仲良くする必要はない」「自分を偽ってまで群れるべきではない」という主張には一定の真理がある。
人間関係において、適切な距離感を保つことは重要であり、自分の心を守る術でもある。
しかし、それが転じて、
「誰とも関わらなくていい」
「人間関係はすべて煩わしい」
といった極端な考えに至るのであれば、それは人と生きることの本質を否定する態度であると言わざるを得ない。
友達は「偶然」ではなく「意志」によって育つ
本当の意味での友人関係とは、偶然や一時的な利害の一致によって成立するものではない。
それは、互いに違いを受け入れ、時間をかけて信頼を築く過程の中に生まれる。
- 最初はうまく話せなかったとしても言葉を交わし続けること
- 誤解やすれ違いを恐れず、対話を続けること
- 支え合おうとする意思を持つこと
こうした行為の積み重ねによってしか、本物のつながりは育たない。
よって、「友達を作る努力を放棄する」という姿勢は、人とのつながりを育む可能性を自ら断つことに等しい。
孤独を美化する風潮の裏にあるもの
現代においては、「ひとりでいられること」が成熟や自立の象徴のように語られる場面も多い。
だが、その背後にはしばしば、
- 人とわかり合えなかった経験
- 傷ついた過去
- 過度な期待の裏切り
といった背景がある。
つまり、「ひとりがいい」という言葉は、本当はつながりを求めている心の裏返しであることも多いのだ。
人間らしさとは「関わろうとする姿勢」に宿る
人と関わることには、たしかに面倒もリスクも伴う。
だが、それでも誰かとわかり合おうとする、支え合おうとするその姿勢には、人間らしい温もりと強さがある。
努力して関係を築こうとすることは、自分自身を鍛えることでもあり、同時に他者を信じることでもある。
その営みを放棄してしまえば、人は次第に孤立し、心の柔らかさを失っていく。
まとめ:つながりを諦めない人でありたい
「友達はいなくてもいい」という言葉は、ときに心を軽くするかもしれない。
だが、本音で語り合える友人がひとりでもいる人生は、そうでない人生とはまったく異なる。
つながりは自然に生まれるものではない。
だからこそ、関係を築こうとする意志と努力が尊いのである。
もし、今はまだ信頼できる友人がいないとしても、それは「自分には必要ない」ということではなく、「まだ出会っていない」だけである。
人とのつながりを諦めない。その姿勢こそが、現代において最も必要な“人間らしさ”なのではないだろうか。